ログイン王の兵たちは、橋から少し離れた国境警備所へ私たちを案内した。街道沿いの低い石造りの建物で、門には灰色の狼をかたどった紋章が掲げられている。そこへ入るころには日が落ち、戸口で燃える松明の煙が、湿った外套に染みついた川の匂いを追い払った。
エイドリアン王は真っ先に手当てを受けると思っていたのに、兵へ馬と人数を確認している。私が巻いた布には、新しい血が少しにじんでいた。 「陛下、先に腕を診てもらってください」 思わず口を挟むと、近くにいた兵がこちらを見た。王は私のほうへ顔を向け、それから自分の腕を見下ろした。 「そうする。川では世話になったから、もう一度言われる前に行こう」 「最初からそのつもりだったようには聞こえません」 「二度目を聞かずに済んだのは確かだ」 彼が奥の部屋へ入ると、兵たちの動きも少し落ち着いた。年配の兵が私を暖炉のそばへ通し、温めた水とパンを持ってきてくれる。私は茶屋で買ったパンをまだ食べていなかった。遠慮するつもりで口を開いたが、空腹で腹が鳴り、兵が笑いをこらえるのを見て諦めた。 「いただきます。代金は払えます」 「陛下がお連れした客からは取れませんよ。代わりに、川で何があったかは後で聞かせてください」 「分かりました。ただ、私にも分からないことが多いんです」 「分からないところは、そのまま言ってもらえればいい」 兵はそう言って席を外した。温かいパンを割ると指先に湯気が当たり、自分の手が冷えきっていたことに気づく。朝、イーダが包んでくれた手の感触まで思い出した。無事に宿へ着いたら手紙を出す約束をしたが、ここは宿ではない。私はまだ、どこに泊まるかも決めていなかった。 ほどなくして、先ほどの年配の兵が書くものを持って戻った。名を尋ねると、ダリオと答えた。彼は卓の向かいに座り、王と出会うまでに通った道、追ってきた騎手の人数、聞こえた言葉を一つずつ確認した。 「顔は見ましたか」 「北門の近くで、遠目にだけ。橋の手前では姿を見ていません。同じ二人だと言い切れないのが困るんです」 「服装は?」 「二人とも暗い色の外套でした。今思えば、誰でも持っていそうなものですね」 「十分です。見えなかった顔を見たことにされるほうが困りますから」 ダリオは私が話す速度に合わせて筆を動かした。ガレスの名を出したときだけ、一度手を止める。 「その方が追っ手を出したと思いますか」 私はすぐに答えられなかった。ガレスには私を黙らせたい理由がある。けれど、馬で追わせたと証明できるものはない。 「そう疑っています。でも、まだ分かりません。追われていると思ったせいで、ただ同じ道を来た人たちを怖がった可能性もあります。ただ、川沿いに縄と鈴が張られていたのは本当です。陛下も見ています」 ダリオは頷き、最後の一文を書き足した。私に読み上げて内容を確かめてから、証言の下へ署名を求める。私は紙の上から下まで目を通し、曖昧な部分が曖昧なまま記されているのを確かめて名前を書いた。 三日前にこれをしていれば、と考えたところで、筆先が少し止まった。ダリオは急かさず、私が書き終わるのを待っていた。 「川の縄は兵が回収しました」と彼は言った。「誰が仕掛けたかは、今のところ分かりません。陛下を狙った者が使った可能性も含めて調べます」 「陛下は、どうして怪我を?」 「巡回中に襲われました。詳しいことは陛下からお聞きください。私の知っている範囲で話して、違うことを伝えてもいけませんから」 それももっともだった。私には、王が誰とどんな巡回をしていたのかさえ分からない。川で偶然助けた人が王だったという事実だけで、知らない話まで自分に関係があるように思い始めていた。 奥の扉が開き、医師を伴って王が出てきた。傷のある腕は新しい包帯で吊られ、濡れていた髪も拭いてある。私が巻いた布は医師が持っていた。 「浅い傷ですが、今夜は腕を休めていただきます」 医師が私にも聞こえるように言うと、王は「承知した」と答えた。その後で私の席まで来て、向かいの椅子を引く。 「医師から、布が清潔で助かったと聞いた。礼を言う」 「傷が浅くてよかったです。川では、大丈夫そうな顔をしていたので判断に迷いました」 「あのときは兵と合流するまで歩ければよかった。自分で思っていたより血が出ていたらしい」 王は私の空になった皿を見ると、ダリオへ目を向けた。彼は心得たように「夕食も用意します」と言って部屋を出る。私はパンを一つ食べただけで、すっかり世話になる流れができていることに落ち着かなくなった。 「陛下。さっきの納入票について話す前に、確認したいことがあります。私は群れから追放され、物資を持ち出した疑いをかけられています。その話を聞いたうえでも、ここに置いてくださるんですか」 王はすぐに肯定しなかった。卓の上にあるダリオの記録を読み、私の署名のところで紙を押さえる。 「疑いがあることは聞いた。ここへ連れてきたのは、川で俺を助けたからだけではない。お前自身が追われている可能性があり、持っている帳簿には王領への荷の記録もある。今夜のあいだは保護する。ただ、ここに留まるよう命じるつもりはない」 「帳簿は取り上げますか」 「見せてもらいたい。原本を預かる必要が出れば理由を話すが、今はお前が持っていていい」 私は鞄から古い帳簿を出し、王の前に置いた。川で落としかけた納入票は、頁の間にきちんと戻してある。王は無事な手でそれを開き、日付と荷の内訳を追った。 「保存食が六樽、薬が二箱。北倉へ運ぶ前に、そちらの群れで出庫した記録だな」 「はい。冬は道が悪くなるので、荷馬車の出る日と積んだ数を細かく残しています。納入票には北倉の受領印がありますが、陛下は届いていないとおっしゃいました」 「受領印を押す権限がある者を調べる。俺の覚えている未着の荷と、これが同じものかも確かめなければならない。帳簿だけで結論は出せない」 私はその言葉にほっとした。王が「これで誰が盗んだか分かった」と言い出したら、私には止める手段がなかっただろう。反面、信じてもらえたと思うにはまだ早いのだとも分かる。 「私もそう思います。今の疑いを晴らすには、群れに残してきた帳簿と倉庫の控えも必要です」 「故郷で確認を約束されたのか」 「約束はされました。私が立ち会うことは認められませんでしたけど」 言いながら、また怒りが戻ってきた。長老たちが実際に調べている可能性はある。それでも、結果を待つあいだに私ができることは限られている。 王は帳簿を閉じず、頁の端を手で押さえていた。 「この国境警備所にいれば、正式な問い合わせを出せる。そちらの群れの調査を俺の命令で止めることはしないが、王領へ出したと記された荷については、こちらにも調べる理由がある」 「それなら、私に手伝わせてください」 王が顔を上げた。 「理由は?」 「私がつけた記録だからです。何を確かめればいいか、少なくとも私は知っています。疑いをかけられている本人では、公平に調べられないと言われるかもしれません。それでも、数字を読む仕事まで奪われたくありません」 王は帳簿の表紙に目を戻した。使い込まれた革は角が丸くなり、背の糸を私が一度縫い直している。立派な品ではないが、今の私が持ち出せた数少ないものだった。 「王城の記録を扱う者にも確認させたうえで、仕事を頼む形にしよう。まずは北倉の記録との照合だ。報酬を払う。ここでの寝泊まりも、調査のあいだはこちらで手配する」 「陛下が私を保護したと、故郷の群れにも伝わりますか」 「正式に照会すれば伝わる。伏せたまま調べることもできるが、お前が調査に加わるなら、立場を曖昧にしないほうがいい」 私は頷いた。守られていると思っていた場所で家に封をされ、出ていくよう命じられた。王の庇護という言葉にすがりたくなる。だからこそ、話せるうちに話しておかなければならない。 「条件があります」 「聞こう」 「私を信じると言って、都合が悪くなれば捨てないでください。私の話に疑わしいところが見つかるのは構いません。間違いもあると思います。ただ、そのときは私に何が起きたのか聞いてほしいんです。黙って出ていけば穏便に済むと言われるのは、もう嫌です」 王は目を逸らさなかった。傷を吊った腕が動かないよう、もう片方の手で肘を支えている。言葉を選んでいるあいだ、彼は私を安心させるためだけの笑みを作らなかった。 「最初から何もかも信じるとは約束できない。俺には、王領の荷を調べる責任があるし、お前にもまだ話していない事情があるだろう」 「あります」 「だが、疑いが出たとき、お前の言葉を聞かずに追い払うことはしない。お前が自分の意思で去るのでなければ、ここで受けた保護を俺の都合だけで取り消さない。それは約束する」 私は、ガレスにもこんなふうに話してほしかったのだと思った。何でも信じると言われたかったわけではない。疑問があるなら、私の前で聞いてほしかった。 「分かりました。私も知っていることは隠しません。ただ、故郷に友人がいます。彼女を勝手に調査へ巻き込まないでください」 「名前を教える前に、どう連絡を取るか相談しよう。必要なら、お前自身が手紙を書ける」 王はそこでようやく、帳簿を私のほうへ返した。私は受け取り、納入票が挟まったままなのを確かめる。 ダリオが夕食を運んできた。野菜の入った温かい煮込みと、先ほどより柔らかいパンだった。王の前にも同じ皿が置かれ、医師に腕を休ませろと言われたばかりの彼は、片手でパンを割るのに苦労している。私は自分の分を割ってから、彼に声をかけた。 「必要なら、そちらのパンも割りますよ」 「昼に自分で傷の手当てができなかったうえ、食事まで手伝わせたら、兵に何と言われるか」 「陛下は部下の前で強がるほうなんですね」 ダリオが咳払いをして横を向いた。王は彼を一度見たが、叱らずに私へ皿を寄せる。 「では、今夜だけ頼む」 パンを割って返すと、王は素直に礼を言った。ほんの少し前まで名も知らなかった相手と食卓を囲んでいることが、不思議だった。身の上の問題が片づいたわけではない。それでも温かいものを食べながら、明日調べることについて話せる。私は煮込みをひと口飲み、ようやく自分が警備所に着いたのだと感じた。 食事の半ば、外で馬が止まった。ダリオが立ち上がり、戸口で使者から封書を受け取る。灰冠城の印ではなく、私には見慣れた、故郷の群れの印が押されていた。 王は封を切り、短い文面を読んだあと、紙を私にも見える位置へ置いた。 「お前の群れからだ。逃亡した横領の容疑者を拘束し、引き渡すよう求めている」 夜明けに門を出てから、まだ一日も経っていない。私は匙を置き、差出人の名を確かめた。長老会の連名の下には、ガレスの署名があった。 「私は長老から、調査が終わるまで群れを離れろと言われました。逃亡したわけではありません」 「ならば、最初にそこから確かめよう」 王は封書を畳み、ダリオに紙と筆を頼んだ。私が何を知っているか聞く前に、使者へ引き渡すとは言わない。その姿を見ながら、私は食べかけの夕食の前に座り直した。ガレスの書いた一行に、今夜の居場所まで奪わせるつもりはなかった。窯を借りた男の署名は、朝の光に透かしても読み取れなかった。筆の終わりだけが紙に深く食い込み、前半は急いで書き流したように潰れている。私は昨夜から何度も眺めていたが、読めるはずだと思い込むほど、知っている名前に見えてしまう。「ここで名前を決めるのはやめましょう」 私が帳面を閉じると、ヴィンはうなずいた。彼も同じ署名を別の紙に何通りか写していたが、どれにも自信がないらしい。「代金の受け取り先から追えます。現金払いでも、窯を借りる前に誰が道を通したかは残るはずです。国境の荷を王城へ入れる許可を調べてみます」 通行の控えを探しに行ったヴィンの背中を見送り、私は窯から預かった銀板と、三台目の馬車で採った粉についての記録を並べ直した。どちらも行き先を証明するには足りない。だからこそ、書類を一枚見つけるたびに犯人の名前を先回りして書きたくなる気持ちを、抑えなければならなかった。 昼前、ヴィンが戻ってきた。抱えていたのは通行記録ではなく、厚い人事簿だった。「クレイン商会の名義で、昨冬に王城北倉への荷の搬入申請が出ています。その控えを探していたら、王廷の補給官を選ぶための書類にも同じ申請番号があったんです。荷の申請を、職を求める際の実績として使っています」「誰が?」 ヴィンは私を見て、答える前に簿冊を机へ置いた。「ガレス・ロウです」 知っている名前なのに、耳に入った途端、しばらく意味を結ばなかった。ガレスが地位を欲しがっていたのは昔から知っている。領内の役職では満足せず、王城で仕事をしたいとも言っていた。私が驚いたのは、その願いが窯の荷と同じ書類に現れたことより、いつの間にか私は、彼の望みを深く考えるのをやめていたからかもしれない。 人事簿には、北倉の補給監督補佐を求める申請が綴じられていた。冬の荷が行方不明になる前に、ガレス自身が署名している。添付された事業計画では、自分の群れとクレイン商会が冬道の輸送を整え、王城の補給費を減らせると訴えていた。荷の搬入実績が認められれば、補佐の選考を進めてほしいともある。 そして、その後ろに挟まれた写しに、私の署名があった。『王城北倉向け物資の搬出命令を確認し、記載の荷を引き渡す』
南の古い精錬路へ入る前に、私たちは橋のたもとで馬を降りた。ヴィンが見つけた修繕費の控えには、春に架け直した欄干の長さまで記されている。実際に見ると、片側の木だけ色が新しく、橋板には荷馬車の車輪が通る二本の筋が深く残っていた。 ダリオが三台目の馬車から採った灰色の粉を、小さな紙包みごと職人に見せる。橋の補修を請け負った男は、指につけて匂いを確かめたあと、顔をしかめた。「窯の灰ですね。ここから先へ運ぶなら、春は馬車を軽くしないと橋がもちません。冬は欄干を壊したまま通したやつがいて、その修繕を私らがやったんです。誰の馬車かまでは見ていませんが」 橋を通ったのがオーウェンの荷だとは、まだ言えない。私は修繕の日付と職人の名を書き留めた。ダリオが橋板の筋を調べているあいだ、エイドリアンは川上に続く道を見ていた。「窯まで馬で行けるか」「行けます。ただ、あそこには今も人がいますよ。古い窯を使って細々と仕事をしている連中です。勝手に押し入れば、見せてくれるものも隠すでしょう」 職人の忠告を受け、私たちは護衛を橋に残して三人で向かった。窯の入口には割れた鉢と石炭袋が積まれ、炉からは細い煙が上がっている。すでに誰もいない場所を想像していた私は、仕事中の人たちを見て少し恥ずかしくなった。ここには、昨日までの暮らしがある。 責任者だという女は、王の名を聞いても帳面を胸に抱えたままだった。「うちは税を納めています。王様が来たからといって、釜の中身を全部ひっくり返されたら明日の仕事が止まります」「必要なものだけ見せてほしい。仕事の損失が出たら記録して払う」とエイドリアンが答える。「後で払うと言われて、後で払ってもらえた経験があまりないんですよ」 女はすぐに引かなかった。私は橋で採った粉の包みを出し、炉そのものより、昨冬にここへ来た荷と粉の由来を知りたいのだと説明した。彼女は私の帳簿とエイドリアンの顔を見比べ、窯の裏にある棚だけを案内すると決めた。「荷主の名前を知りたいなら、うちの控えを読んでください。ただし持って帰らないで。前に役人に原本を持っていかれて、返してもらうまで仕入れを二重に払いました」 彼女の警戒には理由があった。私たちはそ
城へ戻った翌朝、ヴィンが南の街道図を机いっぱいに広げた。紙の端を文鎮で押さえても、長く巻かれていた癖が抜けず、精錬路のあたりが丸まって見えなくなる。私が帳簿を重しにすると、ヴィンはようやく道を指で追えるようになった。「オーウェンさんが言った窯は、ここでしょう。古い精錬路は冬でも通れますが、荷を積んだ馬車には狭い。三台とも向かったなら、途中で車を替えたはずです」「三台目は車輪の番号が削られていたわ。替えた車かもしれないし、あとで別の場所を走っただけかもしれない。今ある記録だけでは、つなげられないわね」「そう言われると思って、修繕代の控えも持ってきました」 ヴィンは得意そうに薄い綴りを差し出した。昨年の冬、精錬路沿いの橋は雪で欄干を傷め、春先に補修されている。通れなかった証拠にはならないが、道幅や車輪の跡が残った場所を探す手がかりにはなる。私が礼を言うと、彼は「褒めるのは帰ってきてからにしてください」と答えた。「ダリオさんはアデルさんの家へ行っています。返事が届くまでは、こちらも動きすぎないほうがいいでしょう。守る相手がいる捜査って、帳簿を読むより気を使いますね」 以前の私なら、そこまで考えただろうか。損失の数字は追ったのに、戻らなかった御者の名前を追わなかった。その後悔に足を止められたくはないが、忘れて仕事を手早く済ませた気にもなれなかった。 昼を過ぎてダリオが戻り、私はヴィンと一緒に報告を聞いた。アデルの家の周囲に不審な人影はなく、兵は離れた二か所に配置したという。オーウェンの手紙は、ダリオが直接渡した。「奥方は、最初の一行を読んだところで座り込みました。しばらくして全部読み終えると、泣くのをやめて、あいつは脚をどうしたのかと私に聞いた。事情を話したら、今度は怒りだしたよ」「何に?」「本人が生きていてよかったことと、知らせを寄越さなかったことは別だ、と。ずいぶん正確な言い分だった。あの場では、私も余計な口を挟めなかった」 ダリオは大きな手で封書を一通、机へ置いた。アデルからの返事だった。オーウェンに直接渡してほしいと書かれた宛名の下に、私たちへの短い伝言が添えてある。娘を伴って会うつもりだが、家の安全と道中の護衛を自分でも確かめた
診療所からの返事には、名前が書かれていなかった。『お尋ねの冬の輸送について、話をしたいという者がおります。本人の希望により、会うまでは所在を公にしないでください』 それだけでも、便箋を持つ私の指は落ち着かなかった。エリアスの話を聞いたあと、私たちは輸送路沿いの宿と診療所に、オーウェン・ベルの人相と荷馬車の事故の記録を尋ねていた。返事の大半は「心当たりなし」だったから、この一通にも期待しすぎまいと決めていたのに、出発の支度をするあいだ、私は何度もアデルの顔を思い出した。 国境の診療所は、川沿いの粉挽き小屋を改めた建物だった。戸口には乾いた薬草が吊られ、奥から石臼ではなく、湯を沸かす鍋の音が聞こえる。エイドリアンは護衛を外に残し、私とダリオだけを伴って中へ入った。 迎えた年配の医師は、王の顔を見ても腰を折らなかった。「先に断っておきますが、ここで暮らす人間を、診察台から引きずり下ろすような真似はさせません。あの人は手紙の内容を読み、自分で会うと言いました」「それでいい」 エイドリアンが答えると、医師はようやく廊下の先を示した。診療所の保護を頼っている人なら、王が来たこと自体、脅しに見えるかもしれない。私は部屋へ向かう前に、そのことをエイドリアンに小声で伝えた。「まず、私から話してもいいでしょうか。帳簿で名前を見つけたのは私ですし、彼の奥さんにも会いました」「わかった。私はここで待つ。彼が望まなければ入らない」 飾り気のない返事だった。私は安心した半面、自分だけが先にアデルの夫と会うことに、奇妙な後ろめたさも覚えた。 小部屋には窓が一つあり、洗った布が日の当たるところに掛けられていた。机の前に立つ男は私より少し年上に見え、左脚をかばっていた。衣服は清潔だが、袖口は何度も繕われている。名乗る前に、彼は私の手にある古い帳簿へ目を留めた。「まだ、あれが残っていたんですね」「オーウェン・ベルさんですか」「ええ。先に聞かせてください。妻と娘は生きていますか」 問いに勢いはなく、そのぶん、答えを待つ間の長さが痛かった。「お二人とも生きています。アデルさんには先日お会いしました。娘さんも一緒
配給所の戸を開けたガレスは、最初に人の声ではなく、床を引きずる木箱の音を聞いた。奥ではイーダが薬の箱を数え直している。机には保存食の出庫票が積まれ、まだ朝の配給が始まっていないのに、窓口の外には十人ほどが並んでいた。「足りないのか」 ガレスが声をかけると、イーダは箱の蓋を閉めた。祝祭以来、彼女は仕事に必要なことしかガレスに話さない。今日も棚から帳簿を取り出し、印をつけた頁を開いた。「薬は今日の分があります。ただ、来週の分として頼んだ箱が、まだ来ていません。保存食は今朝、配る量を減らさないと週末までもたないです」「南から荷が来る予定だろう」「予定はそうです。でも、いつ着くかを確かめてもらえませんでした。先週から三度、長の執務室に伝えています」 ガレスは帳簿に目を落とした。イーダの字で日付と残数が並んでいる。その横に細かく書き込まれた古い注意書きは、リヴィアの字だった。小さな子どものいる家、狩りで負傷した者、ほかの村から一時的に身を寄せている家族。彼女は決まった量を配るだけでなく、誰がいつ受け取れなかったかまで記していた。「この欄は、必ず埋めなければならないのか」「埋めないと、来なかった家の分が余ったのか、取り置きが必要なのか分からなくなります。リヴィアがいたときは、受け取らなかった人のところへ、その日のうちに誰かが様子を見に行っていました」 イーダは箱を棚へ戻した。ガレスには、嫌味を言われたようにも聞こえた。ただ、今朝ここに並ぶ人々を前に、言い返す言葉が見つからない。「南には俺から催促する。今ある分は、夕方までに代わりを手配するから、朝はいつもどおり配ってくれ」「夕方までに届く見込みがあるなら、そうします。約束だけなら、今ある量に合わせて配ります」「俺が手配すると言っている」「だから、届く見込みを聞いているんです。昼に薬を使ったら、夕方届く予定の箱を開けることはできません」 外で待つ女が、窓口を覗いた。イーダは彼女に、もう少しで始めると告げる。ガレスは何も言わず、出庫票を一枚取った。南の集積場へ送った注文書に、確かに自分の承認印がある。だが、そのあと誰が到着日を確認することになっていたか、思い出せ
警備室でエリアスの名を尋ねると、ダリオは北倉の古い勤務簿を開いた。昨冬に休職したあと、兵へは戻っていない。今は城から半日ほどの町で、革具の修理を手伝っているという。「こちらから事情を伝えて、会ってもらえるか聞きます」とダリオが言った。「陛下がいきなり訪ねれば、断りたくても断れません」 私は頷いた。王はエリアスを傷つけたという記録を、長いあいだ信じてきた。私たちは追記の筆跡を疑っているが、エリアス自身の話を聞いていない。その状態で王に「あなたはやっていない」と言うのは、私にはできなかった。 ダリオからの手紙に、エリアスは翌朝返事を寄こした。王本人と話すことを望む。ただし、リヴィア・フェンも同席してほしい、とある。「私の名前を知っているんですか」「冬の荷の帳簿を調べていると伝えました」とダリオが答えた。「エリアスも、荷を送り出した群れの記録係が来るなら話したいそうです」 王は返事を読み、自分の腕で馬を操れるようになったから騎乗で行くと言った。ダリオが医師の名を出す前に、私は「馬車で一緒に行きましょう」と勧めた。王は私を見て、今度は争わず頷いた。 道中、彼は冬の記録の写しを膝に載せていた。昨日から何度も読んでいるはずだ。追記の筆跡が本人のものに見えないと分かっても、書かれた出来事まで嘘だとはまだ決められない。そのことが王を悩ませている。「もしエリアスが、俺に腕を折られたと言ったら」 馬車が町へ近づいたころ、王が口を開いた。「私は、彼の話を聞きます」「お前には、俺を信じたい理由もあるだろう」「あります。だから一緒に来たんです。でも、彼が何をされたか決めるのは、私でもあの帳面でもありません」 王は写しを畳んだ。怒った様子はなかったが、続く言葉を探しているように見えた。「お前に、そんな返事をさせたかったわけではない」「分かっています。陛下は、万一のとき私が困ると思ったんでしょう。私はエリアスさんが話す前から、傷ついたのは誰かと考えています。会ってから答えを決めましょう」 王は「そうだな」と言い、窓の外へ顔を向けた。町の家々が見えてくる。石畳の端には、荷車から落ちた藁が風に寄せられてい







